第7章
 
 
各種キーボードの性能の定量的比較
 
 
 
 
7−1 まえがき
              
 現在日本文入力方式としてJIS仮名文字鍵盤、および新JIS仮名文字鍵盤学が国で指定されており、OASYS鍵盤も一部で使用されている。しかし、実際には英文入力用として制定されたQWERTY鍵盤が主流であることは既に述べた通りである。
 このように色々な鍵盤がある場合に、どれが良い鍵盤であるか?を比較することは簡単ではなく、しかもそれらの「良さ」を定量的に比較することなど、極めて困難なこととされてきた。
 その理由は、キーボードの操作は個人差が大きいので、キーボードの良さを比較判定するには多数の被験者を同一条件で練習させることが必要だが、それは実行不可能だったことと、今ひとつは、そもそも「キーボードの良さとは何か?」が定義されていなかったからであろう。
 しかし、今後の情報化時代に日本国民全員が日夜駆使すべきキーボードについて何等の比較評価も行われず、漫然と経過することは日本民族の大きい損失であると思われる。
 そこで、著者は敢えて此の前人未踏の分野に挑戦し、入力方式の性能として合理的な定義を定め、それについて合理的な推論計算を行い、異なる入力方式の性能を定量的に比較する理論を開発した。
 此は、入力成果に影響する多数の要因を全部網羅計算したわけではないので、完全無欠な理論とは到底言えないが、ともかくキーボードの良否を定量的に比較するという未開発の分野に対して第1歩を開拓したものであり、その意義は小さくないと思う。
 此の理論に基づいて計算された結果を発表した論文「日本文入力方式と鍵盤方式の最適化」(電子情報通信学会論文誌[D]昭和62年11月号)は電子情報通信学会の年間最優秀論文賞である米沢特別賞を受賞した。これは、此の理論の妥当性を裏づけたものといえよう。
 
7−2 キーボードの「良さ」とは何か?
 
 一般的にある方式のキーボードについて、全くの未経験者が練習を開始してから、練習を重ねて熟練者となるまでの、入力速度と練習時間数との関係を示す学習曲線を描くと図のようになる。
 すなわち、練習開始当時は入力速度の向上が速いが、やがて上昇率が鈍り、最終的にはある飽和値に収斂する。
 
 
此の学習曲線を特徴付ける要素として、本論文では2項目を取り上げることにした。
その第1は熟練者が到達する入力速度の飽和値の高さである。此の項目は職業的専門家向の用途に対して役立つ評価項目であり、、これを評価項目として取り上げることについてはたれも異論がないと思う。
 第2の項目については多少説明が必要である。第2の項目として取り上げたのは、初心者が如何に速くキーボードを使えるようになるか?と言う立ち上げの速さの評価である。
図で言えば、左下の原点から斜めに立ち上がる直線の傾斜角度に相当する。
 初心者がキーボードを使いこなすには、先ず各キーの配置を記憶することが必要である。キー位置を記憶せず、打鍵の都度キーを探すようでは、入力速度は上がらない。従って、初心者がキー配置を早く記憶することが早く上達する要件となる。
そこで、キーボード評価の第2の項目として、「記憶負担量」という概念を提唱したい。
 記憶負担量の小さいキーボードは速く覚えられ、記憶負担量の大きいキーボードは一人前になるのに時間がかかることになる。
 以上、「熟練者入力速度」と「記憶負担量」の2項目を各種のキーボード方式の比較検討の際の評価項目として取り上げたい。
 
7−3 記憶負担量
 
 キー配置を記憶するに必要な努力の量を「記憶負担量」と定義すると、これはキーの数とキー配置の規則性によって定まる量である。
 キー配置が例えば50音表順のように規則的であれば、その規則性の程度によって等価的なキー数を減少させて考えればよいので、以下はキー配置は不規則的、すなわちランダムな配置である場合を対象とする。
 先ず、n個のキーで構成される鍵盤の中の1個のキーの位置を記憶するに要す努力の量を取り上げる。
 平面上に配置された鍵盤であるから、記憶努力としては、上中下の何段目であるか?ということと、左右の何列目であるか?と言うことの記憶が必要で、記憶負担量は両者の和である。
 段数と列数の積がキーの総数nであるのに対して、記憶負担量が段数と列数の和の関係にあると言うことは、記憶負担量をキーの総数nの関数と考えた場合に、その関数はn
に対し対数的な関係にあると考えられる。  人間の考え方で、キーの位置を先ず右手側か左手側か?右手側の時はその中で右端か?中央側か?と言うように考えるので、2を底とする対数と考えるのが妥当である。 以上は、n個のキーの中の1個についての記憶負担量だから、鍵盤全体の記憶負担量は
 
      記憶負担量 ∞ n・logn      (1)
     新JIS方式やOASYS方式のような仮名文字鍵盤方式では、記憶すべき仮名文字キーは小文字等を合計して56個と考えられるので、(1)式のnに56を代入して記憶負担量は約320となる。
 これに対して、QWERTY鍵盤ではnを26と考えることが出来るので、(1)から記憶負担量は120となる。
 ここで考慮しなければならないことは、仮名文字鍵盤でも、最近の文書にはNTTとか、JRとか、NECとか、英文字が頻出するので、仮名文字の他に英文字も記憶しなければならないことである。
 その結果、仮名文字鍵盤の記憶負担量は320+120=440 となる。
 これを英字鍵盤の記憶負担量120と比較すると約3.7倍であり、如何に覚えにくいかがわかる。
 これにより、大部分の人がローマ字方式を採用する理由が明確になった。
では M式の記憶負担量はどうなるだろうか?
 M式の場合には、左右に文字キー群が分離されているので、記憶負担量はそれぞれの文字キー群の記憶負担量の和となる。さらに、英文入力用に日本語入力には使用しないC、F、J、L、Q、X、V の7文字も記憶しなければならない。
 しかし、 M式のキー配置は50音表順で規則的だから、右手子音キーは14個のキーだが、記憶負担としては等価的に7個と考えて良い。同様に、左手中段も5個だが等価的に3個と見て差し支えない。
 M式では母音キー群は漢字入力用に5段と仮名用に1段の計6段であり、完全なマトリックスだから、母音キー全体の記憶負担量は前記の中段の等価値3個分と6段分との和となる。
 さらに上記のCFJLQXV分が加算されるが、これもアルファベット順だから7個を等価的に6個と見ることが出来る。以上により、M式の記憶負担量は、
 (7log7)+(3log3)+(6log6)+(6log6)=55
 
以上の結果を整理すると、
  M式の記憶負担量  新JIS方式の記憶負担量 QWERTY方式の記憶負担量
    55         440          120
         1           8           2
すなわち、M式を基準にすると、QWERTYは2倍、新JISは8倍の記憶負担量となる。
 
 
 
7−4 熟練者入力速度を決定する要素
7−4−1 選択肢数(等価キー数)
 
 打鍵速度は打鍵対象となる選択肢数(キー数)の対数に比例することが米国の心理学者の実験結果として報告されている。
             t=0.2(1+logn)
              t;打鍵所要時間
              n;等価選択肢数
 この選択肢数にも等価キー数の概念を適用出来る。  すなわち、規則的なマトリックス的キー配置の場合には、ランダムなキー配置の場合と異なり、キーの総数は段数と列数の積だが、この際の等価キー数としては段数と列数との和となることは、いわゆる「リスト処理の手法によって明かである。
 同様に、シフトキーによってキー数が2倍になる場合でも、等価キー数は2倍ではなく、(実在キー数+1)となる。
 
 
 
7−4−2 左右交互打鍵率
 
熟練者の入力速度に大きい影響のある要素として「左右交互打鍵率」がある。
太鼓連打の際に、左右交互打鍵を行うことは良く知られた事実だが、左右交互打鍵は片手連続打鍵に比較して遙かに高速打鍵が可能である。
 左右交互打鍵が同側連続打鍵に比較して何倍の速度になるかと言う改善率は、個人差が大きいが、熟練するに従い次第に大きくなり、著者の主催していた新入力方式センターの女性オペレーターの平均値は1.8であった。
 
 日本文入力に際しての左右交互打鍵率は入力方式により異なり、
    QWERTY方式         50%
    新JIS             60%
    M式       90%
 これにより、それぞれの方式の入力速度の改善度が算定できる。
 
 
 
7−4−3 聡打鍵数
 
 所要入力時間が聡打鍵数に関係することは説明の必要がないが、M式では漢字に対して打鍵数節減が行われるので、この省打鍵効果により入力時間の短縮が実現される。
 日本文の漢字含有率は文章の種類により大きく変化し、従ってM式の省打鍵効果も文章の種類によって異なるが、以下の計算では平均的な漢字含有率として40%を想定した。
 
 
7−4−4 シフトの影響
 文字キー数をタッチタイプ可能な範囲に押さえながら、実効的にキー数を増加させるために小指シフト又は親指シフトが採用される。
 小指シフトはプリシフトとして実施されるから、入力時間の計算には単純に打鍵数を追加すればよいが、親指シフトの場合には並行的に打鍵されるので、入力時間の計算法が問題である。
 並行的に打鍵されるので、2打鍵ほどの時間はかからないが、矢張り相当の負担となるので単独打鍵に比べれば、多少時間がかかることはやむを得ない。著者らの実験によれば、親指シフトの打鍵時間は、単独打鍵と比較して、(個人差もあるが平均して)
 約 1.3倍  と言う結果を得ている。
 
 
 
7−4−5 子音・母音分解時間
 仮名文字鍵盤で日本語を入力する場合には発音をそのまま打鍵するので、打鍵所要時間の算出が単純だが、ローマ字入力の場合には、打鍵前に頭の中で子音・母音の分解する時間が必要である。
 この値は子音と母音とのキー数を同一としたときの、子音キー打鍵時間平均値と母音キー打鍵時間平均値との差として実験的に求められる。  
M式の子音・母音分解時間は普通のローマ字入力の1倍半と言う値が得られている。
 
 
 
7−5 各入力方式の熟練者入力速度計算結果
 
 前節に解説した各要素を組み合わせた計算を行った結果を次に示す。(詳細は学会発表論文参照)
熟練者入力速度計算値(相対値)
従って、 M式とQWERTY方式との熟練者入力速度の比率は1.87すなわち 約2倍となる。これは実績と良く一致している。
 
 
 
7−6 熟練者入力速度の学習曲線計算値

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