第1章
 
気付かれない莫大な損失
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1−1 キーボードの必要性と日本語
 
 前から予測されていた通り、今や日本にも情報化時代が到来し、職場でも家庭でもパソコンやワープロが普及して、キーボードを操作する日本のキーボード人口は膨大な数と想像される。 
 パソコンなどの操作には、データベース上での情報の検索や到着した手紙を読むなどの受動的な動作も有り、これらの作業に対してはマウスと呼ばれるポインティングデバイスの操作によってディスプレイ画面上で希望の項目を選択するだけですむので、キーボードは不要の場合もある。
 しかし、パソコンなどの操作には手紙の発信や各種原稿作成・データベース作成などの能動的な操作も有り、これらの場合には手紙の発信内容やデータベースを構成する各種のデータなど、操作者が持つ意志や情報をコンピュータに伝達することが必要となるので、その伝達手段としてキーボード操作が必要となる。そしてこの操作は「入力操作」(インプッティング)と呼ばれている。
 入力操作には必ずしもキーボードに依存しなくても、「手書き入力方式」や「音声入力方式」などの方式も存在するが、これらは入力速度、確実性、操作者の疲労度、装置の費用などの何れの点においてもキーボードが勝るので、今後とも入力方式としてはキーボードが主流である。
 このようにキーボードは人間とコンピュータとの中間に介在するいわゆるマン・マシンインターフェースとして大変重要な役割を演ずるものである。
 ところで、パソコンの日本での用途の過半は日本語ワープロであると言われ、それ以外の応用ソフトの場合でも日本語のデータを入力することが多いので、日本でのパソコンは日本語の処理が大変重要であることは言うまでもない。
 と言うことは、マンマシン.インターフェースとしてのキーボードも日本の場合には日本語に対する対応が極めて重要であることを意味している。
 
 
 
1−2 米国におけるキーボードの経緯
 
 日本のキーボードの経緯をお話する前に、順序としてまず米国のキーボード事情を説明したい。
 現在広く世界中で標準的に使用されている英文用キーボードの文字キー配列は、最上段のキー配置が左端からQ、W、E、R、T、Yの順番なのでQWERTYキーボードと呼ばれている。
 このキーボードは米国で百年以上前にレミントン社によって初めてタイプライターが開発されたときのキー配置であり、このときは機械的タイプライター方式だったのでレバーが打鍵時に絡み合わないようにするなど、機械的設計上の制約から決定されたキー配置であって、英文入力用キーボードとして人間工学的に最善のものではなかった。
 その後、タイプライタの構造が機械的打鍵方式から電気的スイッチ方式に転換されたのに伴い、設計上の機械的制約から開放された後は当然英文入力用としてもっと合理的なキー配置がある筈だった。
 ドボラック氏により英文用として最適化を目指して開発された「DSK方式」(Dvorak Simplified Keyboard)は、度々のコンテストでその優秀性が立証され、既に全米規格協会で制定されており、州によっては州政府機関でDSKの採用が強制された場合もあると聞く。
 
 この鍵盤で注目すべき事項は、母音キーA,O,E,U,Iがまとめて左手中段に配置されれおり、子音キーは主として右手側に配置されていることである。(比較的に使用頻度の少ない子音キーが左手側) 
 これは子音キーと母音キーとの配置をを左右に分離することにより、確率的に右手打鍵と左手打鍵を交互にして、連続同側打鍵の発生をできるだけ避けたことと、使用頻度の多い母音キーを打鍵し易い中段に配置することにより、打鍵速度の高速化を狙ったものである。
 また、それとともに、5個の母音キーを同一場所に並べて配置することはキー配置の覚え易さにも役立つもので、DSK鍵盤は覚え易く、かつ高速入力に適する合理的なキー配置と考えられる。
 しかし、DSK鍵盤はその合理性にもかかわらず、あまり普及しなかった。
 それは、米国ではその頃すでにタイプライターが普及ずみで「タイプライター文化」が確立しており、タイピスト等は折角自分が熟練したキーボードのキー配置の変更を好まなかったからである。
 その結果、一般的には最初からのQWERTY鍵盤が依然として使用され続け、「DSK方式」は工業用の用途など、僅かな限定された分野だけで採用されてきた。
 そして、タイプライター時代からパソコン時代となった今日でも、タイプライター時代の伝統で、キーボードの文字キー配置としてはQWERTY方式が引き続き使用されているのである。
 パソコンを構成するその他の機器、すなわち、中央処理装置、内部記憶装置、外部記憶装置、ディスプレイ装置、印字装置などの機器は日進月歩であって、半年に一度以上の頻度で新製品が発売されている現状と比較して、キーボードだけはその進歩は遅々として十年一日の如くであり、正に対蹠的である。
 
 
1−3 我が国のキーボード規格制定の経緯
 
 米国のキーボードの源流がタイプライターにあるのと同様に、我が国の場合もキーボードはカナ文字タイプライターに遡り、1922年に元外交官でカナ文字会創始者の山下芳太郎氏が米国メーカーに発注したのが基になっている。
 同氏の考案したキー配置は日本人が覚え易い50音表順だったが、不幸なことに、昭和の初期にカナ文字タイプのキーボードのキー数が42文字から48文字に増加されたときに現在の不規則なキー配置に変更された。
 それでも、このキー配列にはところどころに50音表順の面影が残っている。
 その後、コンピュータが日本に導入された時、数字とアルファベットだけでは日本市場でのデータ入力に不便だったので、急遽当時のカナ文字タイプライターのキーボードを参考にしてコンピュータ用のJIS仮名文字鍵盤が制定された。
 カナ文字タイプライターの鍵盤に基いて制定されたJIS仮名鍵盤は覚え易くもなく、熟練者の高速打鍵にも適しない、やや中途半端な性格の鍵盤になっている。
 その後、仮名漢字変換の技術が急速に発展して、コンピュータの出力はカナ文字から「漢字かな混り文」へと進歩した。
 このJIS仮名文字鍵盤は上下4段にキーが配置されており、ブラインドタッチの場合には上、中、下、3段が限界とされていたので、改定が要望されていた。
 そこで工業技術院が中心となり、電子工業振興協会に委嘱して学界、各メーカーなどの学識経験者を集めて新JIS鍵盤検討委員会が発足した。
 その頃はキーボードを操作する人間はキーパンチャー、オペレーター、コンピュータ技術者など専門家に限られており、今日のようにパソコンが各職場から家庭にまで普及することは、当時誰も予想しなかった。
 従って、良いキーボード方式の要件として、「キーボードのキー配置の覚え易いこと」という項目は重視されず、主として「熟練者の入力速度が高速であること」が方式選択の基準であり、「仮名文字鍵盤の方がローマ字鍵盤より打鍵数が少いから高速入力に適合する」との考え方で仮名文字鍵盤の配列に集中して検討され、ローマ字鍵盤として何が良いか?が検討されたことは無かったのである。
 
 検討・審議の具体的項目としては、日本文に対して確率的に左右交互打鍵率を多くすること、段超え打鍵率を減らすこと、および指の負荷分布の合理化などを目標とし、多数回の会合を重ねて審議検討した成果として、仮名文字キーを上中下3段に合理的に配置した「新JIS仮名文字鍵盤」が1986年に制定された。
 しかし、折角制定された新JIS仮名文字鍵盤も殆んど普及せず、仮名文字鍵盤としては従前からのJIS仮名文字鍵盤が引き続き使用された。これは米国において合理的なDSK方式が普及しなかった事情とよく似ている。
 
 
 
1−4 日本語入力にはローマ字方式が主流  
 
 しかし、前述の新JIS仮名文字鍵盤が委員会で審議・検討されている当時、私の親しい委員の方が「委員会の審議では仮名文字鍵盤を対象としていますが、実は私自身は仮名文字鍵盤ではなく、英文用鍵盤でローマ字入力を行っています」と聞いたことがある。
 新JIS規格検討委員会の議事録には、「ローマ字方式によって操作性の良い鍵盤が得られる可能性はあるが、今回は取り敢えず仮名文字鍵盤を審議する」と記録されており、その当時から実際にはローマ字方式が多数の人に使用されていたと思われる。
 事実、仮名文字鍵盤は、その位置を記憶すべきキー数が50以上と多いので、オペレーターなど日本文の入力を職業とする人は我慢して勉強するが、一般のユーザから敬遠されていたのが実情であった。
 これに対比してローマ字鍵盤は、日本文の入力には濁音を含めても子音キー14個と母音キー5個との合計19個のキー位置を覚えれば良いので、遥かに記憶負担が軽いのである。
 特に最近はNTT、JR、NECなどと固有名詞にもアルファベットが使用されることがしばしばで、仮名文字鍵盤の場合には仮名文字キー50数個と、アルファベットキー26個との合計約80個のキー位置を記憶しなければならないので記憶負担が大変大きくなる。
 それに対比して、ローマ字方式の場合には、日本語入力に必要の19個のアルファベットキー位置は記憶済みなので、固有名詞に使用されるアルファベットを考慮した場合でも、日本語入力で使用しないC,F,J,L,Q,V,Xの7個のキー位置を追加して記憶すれば良い。 
 それに加えて、第7章で詳述するが、 熟練者の打鍵速度は打鍵対象となるキー数の対数に逆比例すると言う事実があり、選択対象となるキー数の多い仮名文字鍵盤の打鍵速度は、キー数の少いアルファベット鍵盤より熟練者の打鍵速度が遅いのである。従って、両方式の打鍵数の差異が入力速度に及ぼす影響はこの事実により、減殺されている。
 キーボードの使用が専門家に限定されず一般大衆に普及してきた現在において、覚え易
いローマ字方式が主流となってきたことは、上述の理由で当然の成行きであると考えられる。
 
 
1−5 日本文のローマ字入力にQWERTY鍵盤のままでよいか?
 
 パソコンが広く国民全般に普及した現在、日本語の入力方式としては仮名文字鍵盤方式よりもキー配置が覚え易いローマ字方式が良いことは前述の通りだが、ローマ字方式の場合のアルファベットキー配置として、英文入力用のQWERTY配列のままでよいか?と言う点が問題である。
 前述のような次第で、現在発売されているパソコンのキーボードにQWERTYキー配置が設定されているのは、英文入力用としてJIS規格に制定されているからであり、日本語入力用に制定された訳ではない。
 日本語のローマ字入力用として如何なるアルファベット配列が良いか?については全く未審議なのである。 
英文用のQWERTY鍵盤を日本文入力用に転用することの問題点の第1点は、日本文で筆頻繁に使用される母音キーA、I、U、E、O、が,Aは左中段、Eは左上段、I、U、O、は右上段と、バラバラの位置に配置されていて、覚え難いことと、そのような配置の故に左右交互打鍵(これについては次章で詳述する)が成立しないことである。
 QWERTY鍵盤を日本文用に転用することの問題点の第2点は、 C、F、J、L、Q、V、Xなど日本文入力用に不要なキーが含まれていて、打鍵し易い大切な場所を不要なキーが占拠していることである。
 QWERTY鍵盤の不合理性の第3点は、日本文で使用瀕度の多い母音キーE,I,U,Oが中段でなく、上段に配置されていることである。
 
 QWERTYキーボードの問題点としては以上の他にも、タイプライター初期の機械的制約により決定された設計が温存されているなど、人間工学的にも色々な問題がある。
 にも拘わらず、この鍵盤が日本市場で独占的に採用されている理由は、次のような事情が推察される。
 即ち、パソコンは元来米国が中心であり、技術者は米国の技術動向を注視しているので、「米国で使用されているアルファベット配列であれば当然これを採用し、日本語とアルファベット文字キー配列の整合性などにあまり疑問を抱かなかったこと。」
 さらに、「今後国際化が進む中で、キーボードも国際的に広く普及しているQWERTY方式を採用するのは当然である」と、積極的にQWERTY方式を肯定する意見もある。 しかしこの意見は、「国際化が進む中で、日本人も日常の文書を英文にするのが当然である」と言うことと同様であって、私は賛成できない。
 なぜなら、日本人が日常日本語を話し、日本文を書く習慣は、今後国際化が進むとしても、当分は、或は永久に、変らないと思われるからだ。
 いずれにせよ、パソコンでのローマ字方式が広く普及した現在、「日本語のローマ字入力用に最適のアルファベットのキー配置は如何に有るべきか?」を追求し、実現すべきであると言うのが著者の信念である。
 
 
1−6 気付かれない莫大な損失
 
 著者は十数年前に前記の問題に着目し、日本語に最適なキーボード方式「M式」を着想した。爾来NECはこの着想に基き、初期のパソコンPC−8800用のワープロシステムPCWORD−Mに始まり、日本語ワープロPWP−100、日本語ワープロM式文豪5N、M式文豪5V、M式文豪3M、日本語ワープロ文豪mini7RM、パソコンPC−9800用楽々キーボードなどと、十数年間に亘り各種のM式機器を引き続き開発・発売してきた。
 これらのM式のキーボード方式についての学識経験者・専門家の評価は頗る高く、1984年には日本経済新聞社から83年日経年間優秀製品賞を受賞、1985年には筑波の万国博覧会で政府館の歴史舘に最近の日本人の代表的発明として陳列され、学術的には1989年に電子情報通信学会から年間最優秀論文賞「米沢ファウンダーズメダル受賞記念特別賞」を受賞している。
 また軽印刷工業会、出版印刷業界、速記者、記者、学者、弁護士事務所、特許事務所などに多数の熱烈なM式ユーザがある。
 M式の色々な特長については本著の次章以下に詳述するが、次の図が概要を示している。
 キーボード方式の性能(良さ)を評価する尺度としては、
    第1に; 初心者にとって、キーボードのキー配置を覚え易いこと
    第2に; 熟練者にとって、最終到達入力速度が速いこと
とされるが、M式と従来のQWERTY方式とを比較すると、第7章で詳述するように、第1点の覚え易さではM式は従来の方式の約半分の時間でキー配置が覚えられ、第2点の熟練者の最終到達入力速度ではM式は従来の方式の約2倍の速度で入力できる。
 この差異は、英文の場合の DSK方式とQWERTY方式の差異や、仮名文字鍵盤の場合のJIS鍵盤と新JIS鍵盤との差異の場合と異り、格段に顕著な差異である。
 キーボード操作が特定の職業の人に限定された時代ではなくなり、国民全部がキーボード操作をする時代となった現在において、M式のような効率的なキーボード方式が存在することが一般に知られないまま、その約半分の能力のキーボードで国民全部が時間を浪費することは、看過できない由々しい事態であると思う。
 近々小学校にパソコン教育が導入されるとテレビや新聞で報道されているが、その際にキーボード方式として何が使用されるのだろうか?
 もし、全国の小学校教育において、M式の存在が気付かれないまま、従来の方式を日本文の入力に採用し続けるならば、全国民が飛躍的な事務効率改善の機会を失うことになり、国家的に莫大な損失となるのではなかろうか?
 本著はそのような事態を憂う気持で執筆されたものである。
 

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